5期生 故上田 雄氏を偲ぶ追悼文ー『芦高鉄研OB会だより(第16号)』から

71年の歴史を誇る芦高鉄道研究部の創立以来のメンバー、上田雄さん(芦高5期生)が去る6月6日薬石効なく亡くなられました。「芦高鉄研OB会だより」16号(2016年9月1日発行)に上田さんを偲ぶ追悼文が掲載されましたのでご紹介します。(あしかび会事務局)

3期卒  池田 和政(OB会会長)

「ボロシ」これは彼のニックネームであり、学年の前後を問わず広く愛称されていた。くわしい理由などは承知していない。彼とは2学年しか離れていないが鉄道研究部にとっては大変貴重な存在であって彼が居なかったら鉄道研究部の今日の発展はなかったと思う。

OB会だより第12号にも本人の口から初期の会合の世話等に就いて苦労したことを発言しているのが正にその通りであった。 彼自身は写真をやるわけでもなく、模型をやるわけでもなく旅行は大好きであってよく山へ登って旅行を愛していた。その間にあって戦後は自治会の世話をしていたので何かにつけて鉄研も世話になっていた。中学校の教鞭をとられた後、芦高の教師となり多くの生徒を鉄研へ引き込んでくれたり校内の行事等でもいろいろな無理を学校側と交渉したり鉄研の顧問として発展に協力された。 個人的には実に温厚な人柄の持ち主で他人にたのまれるといやとは云わず引受けて実現に努力され、時にはそこまでしなくてもと云われる程であった。

鉄研OB会も作る話が出たが思うにまかせなかったあとに相談したところ、前事務局長山本君を紹介されOB会立上げまでご協力を願ったのが今日に至る原点となった。

要するに鉄研は1から10迄すべて大変お世話になったのである。有難うございました。

合掌

「巨星墜つ」   16期卒  山本 克彦

芦高鉄研OB会にとって大恩人である上田雄様が6月6日還らぬ人となられました。
出版など幅広くご活躍されていた中でも特に我々芦高鉄研には目をかけて頂きました。

芦高鉄研は昨年、2015年秋に創立70周年を祝うことが出来ました。上田雄様は芦高校歌の生みの親でもあって創立当時からの鉄研の立役者でありますから、共に創立70年をお祝い出来るものと存じておりました。しかし体調を崩され、2013年秋の総会を最後に、ご出席は叶いませんでした。鉄研の創立だけでなく、2007年秋の鉄研OB会立ち上げの折にも惜しみなくご指導、ご尽力を賜わりました。その設立準備会の時からお世話になっているのです。

実は先生との私の出逢いは昭和57年(1982年)からでした。当時勤め先の上司から、「キミは芦高卒だったな、就職担当の先生にいい人を廻してほしいと言って来なさい」と命令を受けました。卒業20年ぶりに芦高を訪問、就職担当として対応して頂いたのが上田雄先生でした。しかし事はうまく運びませんでした。でも「変った卒業生だな」と思われたのか、少しくお付き合い下さり、年は巡って2007年のOB会設立準備会で奇しくも再びお出会い出来たのです。

想い出は尽きませんが、ユーモァたっぷりな先生のこと、あの世でも旋風を巻き起こしておられるのではと拝察申し上げます。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

上田雄様は、「あしかびML」と言う元教え子さん中心のチェーン・メールを続けておられました。芦高鉄研70周年の記念総会は出席がかないませんでしたが、鉄研について以下のような一文を載せておられたのを転送して頂きました。追悼の意を込めてご紹介いたします。

創立70周年を迎えた我が鉄道研究会、芦高のクラブ活動としては、終戦直後の昭和20年(1945)に硬式野球部とともに発足した最も古い歴史のあるクラブです。 創立者は3期生の池田和政氏と余田昌芳氏、池田氏は先日のOB会にも東京から参加、日本一の「乗車船券の収集者」としてその方面では著名な方。当時毎週の鉄研の例会で、広範な鉄道知識を講義して下さいました。 余田氏は、プレイボーイでしたが鉄道模型の製作には天賦の才能があり、また電気の知識が深く鉄研の例会では「交流理論」とか「回生電動ブレーキの理論」などを講義して後輩の私たちを煙に巻いていました。その時、彼等はまだ芦中の4年生、今の高校1年生だったのです。 以来、絶えず「子供の遊びじゃないか」と揶揄されながら、連綿として続いてきました。 その点、5期生の秀才連が「ESS」に飽きたらずに創部した「フランス語研究会」が芦高の風土に馴染まず?数年で姿を消したのと対照的です。 そしてその間、阪急電鉄の社長となった大橋太朗氏(13期生)や今や押しも押されぬ鉄道評論家となった川島令三氏(25期生)を産みだしたのですから、ご立派なものです。

 

「上田先生を偲んで」         25期卒  川島 令三

上田先生が亡くなられた。もう上田節を聞くことができない。残念である。

上田先生との付き合いは、かれこれ50年にもなる。上田先生とお付き合いされていた諸先輩方からすると50年なんて短いと言われそうだが、といっても半世紀に渡ってお付き合いをさせていただいた。

はじめは鉄研の顧問として、そして長らく鉄研OB会の先輩として、あの上田節でいろいろと教えていただいた。

「俺に対して先生はつけんなや、センセでええんや」といつもおっしゃっていらしたので、ここからは上田センセと書くことにする。その上田センセが、私のことを指して川島ハカセといつもおっしゃっていた。

私は別に博士号をとってはいない。このハカセの称号は、かつてTBSラジオで放送していた「子ども電話相談室」に最初に出演する前に、番組のディレクターから肩書きに鉄道博士(ハクシ)としたいと言われたが、博士号をとっていないので詐称になる。そこで鉄道ハカセなら、鉄道のうんちくを語るマニアであるということで、番組での肩書を鉄道ハカセとした。それを聞いた上田センセは、その後は、いつも私のことを川島ハカセと紹介されるようになった。

ところで、上田センセの学生の頃のあだ名が「ミスター851形」だとセンセから聞いた。往年の阪神電鉄ファンなら851形と聞くと「喫茶店」のニックネームをすぐ思い起こされると思う。上から下までほぼガラス張りの折戸になっている正面貫通扉を持つ独特のスタイルの電車である。

昭和42年に芦高に入って、当然、鉄研に入部、このとき顧問をしておられたのが上田センセである。昭和42年というと、851形が廃車になってしばらくした頃のことである。

しかし、武庫川線の洲先の先、今の武庫川団地前付近にあった武庫川車両の工場の倉庫として、851号と861号が流用されていた。その写真を見せると「851やないか。わしはなぁ、この電車が一番好きやねん。こんなとこに残しとったんか。」とおっしゃられ、なつかしそうに見ておられた。

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なお、851・861形の台車とパンタグラフは7801形と7901形に譲って履いてしばらく走っていたことも思い出す。付随車の台車として851・861・881形のボールドウインが流用されていて、これを履いた7901形に乗るのが楽しみだった。

ときは流れ、かれこれ10年ほど前のあしかび関東支部大会に上田センセが出席され、池田先輩などといろいろと話の華が咲いた。その翌日、私は鉄道のライターや写真家、編集者などが集まって1泊して、どんちゃん騒ぎをする「どん行会」に出席するために中央線の大月駅から特急「あずさ」の自由席に乗り込んだ。

どん行会の連中と合流して茅野駅まで行くことになっていた。そして目当ての座席に座ろうと通路を歩いていくと、「おい、なにやっとんや」と聞いたことがある声で呼ばれた。見ると上田センセではないか。

「あれ、上田センセ、新幹線で帰ったんと違いますか」というと、「わし、新幹線嫌いやねん。中央線の特急に乗り継いで帰るんや」ということで、私は仲間をほっといて茅野駅までご一緒した。

甲府駅を出て、しばらくしたところで、「しかし、贅沢な路線や、中央線は」と言われる。特急「あずさ」はそこらへんで走っている特急車と同じものであり、しかも普通車自由席なので、別に贅沢なことはない。けげんな顔をしていると、「見てみい、富士山があっち、こちには八ヶ岳や、今は季節とちゃうけど、ここらへんは春になると桃の花が咲き乱れとる。まさに桃源郷や。こんな贅沢なとこは他にあらへんで」と言われる。

そうか、センセは鉄道が好きなだけでなく山も好きだった。だから、中央線は贅沢な路線と言われたのだなと感心した。

鉄道や山がお好きなセンセ、そして毒舌を含んだ上田節をもう聞くことができない。残念なことである。                            合掌

 

「芦笛」(創刊号1948年発行)38ページの部報の欄に、全国の旧制中学に先駆けて昭和20年(1945年)11月に設立された芦中の「鐡道研究會」の活動報告が掲載されています。この報告は、上田雄さんが執筆されたものです。(あしかび会事務局)
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1948芦笛2

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