「芦高十五年史」にみる70年前の空襲のありさま(昭和20年6月5日)

今から70年前の1945年(昭和20年)6月5日早朝、マリアナ基地(サイパン島・グァム島・テニアン島)から飛来した米軍B29爆撃機の空襲により旧制県立芦屋中学校の打出校舎(現在の精道中学校の場所にあった。)は全焼し、不発弾破裂で2名が重傷を負った。

この空襲について、「芦高十五年史」(昭和30年発行)は次のように記している。
【空襲当日の学校日誌】
六月五日(火)曇
午前六時半敵編隊空襲、多数ノ焼夷弾ハ少数ノ小型爆弾ト共ニ殆ンド全校舎ニ落下命中シ約三十分ニシテ全焼セリ、消防隊ノ活動モ及バズ。
(下の画面をクリックすると拡大されて文字を読むことができます。)

芦高15年史・空襲1

芦高15年史・空襲2

芦高15年史・空襲3

芦高十五年史に「芦中戦災の記」を寄稿された岩崎 稜さん(故人・5期生)は、その後大阪市立大学法学部長を務められました。

6月の空襲のあと仮移転先の芦屋市宮川国民学校が8月5日から6日未明にかけての空襲で校舎の過半を焼失したため、終戦後もさらに本山第一、第二国民学校、芦屋青年学校等に間借りの仮校舎を移転する苦難の時期が続く中、現在の校歌が制定されました。
校舎の問題は、当時の阪部校長先生はじめ関係者の並々ならぬご尽力があり、芦屋市議会の決議等を経て、昭和22年10月ようやく現在地(旧宮川小学校校舎)に移転を完了し落ち着きました。

米軍爆撃機B29による日本本土空襲については、2017年8月12日に放送されたNHKスペシャル「本土空襲 全記録」が参考になります。

また、神戸市や阪神間の空襲については、神戸市文書館のホームページに米軍資料にみる神戸大空襲の詳しい資料が掲載されています。

神戸大空襲の資料  左をクリックすると神戸大空襲に関する資料が見られます。

◎ 作家 野坂昭如氏は、神戸で自ら体験した6月5日の空襲を題材にして1967年小説「火垂るの墓」を発表、第58回直木賞を受賞されました。神戸の空襲のあと、野坂昭如少年が1歳余の義妹を連れ西宮の親類宅やニテコ池付近の防空壕ですごしたことが朝日新聞の記事で紹介されました。(画面をクリックすると拡大されて記事が読めます。)

朝日新聞の記事に登場する清水孝一さん(あしかび会理事・旧制芦屋中3期生)は昭和20年夏、学徒勤労動員で西宮の苦楽園口駅から阪急電車に乗って尼崎塚口の軍需工場(日本パイプ)に通われていました。

その道筋でニテコ池付近にいた野坂昭如少年を見かけたり話をされました。そのことを2014年に尼崎市立地域研究史料館の学徒勤労動員に関する聞取り調査のなかで「野坂昭如氏との邂逅」と題して報告されています。文中(正)とは、聞き取りをした調査員の名前の略です。

清水さん報告書:野坂昭如氏との邂逅 左をクリックすると報告書をご覧になれます。

 

カテゴリー: 一般投稿, 芦高の歴史 パーマリンク